2021年11月23日火曜日

函館線(函館・小樽間)について(1)

  北海道庁では、北海道新幹線(新函館北斗・札幌間)の開業に伴い、北海道旅客鉄道株式会社(JR北海道)から経営分離される函館線(函館・小樽間)について、沿線15市町とともに「北海道新幹線並行在来線対策協議会」を組織し、地域交通の確保に関する検討を行っている。詳細は道庁のホームページに譲るが、このうち「後志ブロック」(長万部~小樽)については、「全区間の存続」「全区間の廃止」「余市~小樽のみ存続」の三案が俎上に乗っており、早ければ令和3年中に開催予定の第11回ブロック会議にて「方向性の確認」が行われる見通しである。

 ところで筆者の手元には、「有珠山噴火 鉄道輸送の挑戦(平成13年3月26日 北海道旅客鉄道株式会社)」という書籍がある。いわゆる山線(長万部~小樽)が、輸送の大動脈として活躍した最後の機会である平成12年(2000年)3月下旬~5月を記録・取材した書籍であり、端的に言って非常に価値があると言える。にも拘わらず、すでに発刊から20年の月日が経っており、入手自体が困難である状況である。今回は、同書からの引用を中心に、当時の状況を読者の皆様と共有するとともに、山線の存廃議論に資する部分を取りまとめ考察することを目的に筆を進めることにする。

※今回記事において、書籍名を省略しページ数のみ記載されたものは、上記「有珠山噴火 鉄道輸送の挑戦」からの引用であることをあらかじめお断りする。また、暦年を省略したものは、断りの無い限り平成12年(2000年)とする。

図1 本書裏表紙側の付録である「No.3 函館線列車ダイヤ 平成一二年三月一一日改正 12.4.1」から、長万部~小樽のみ抜粋の上、臨時列車を追加した上で電子化した図

 まず、この書籍の一大付録である当時の手書きダイヤ図を、当方でOuDiaを用いて電子化したので、これを最初に紹介したい。有珠山付近で大きな地震を最初に観測したのが3月29日17時22分であり、31日13時07分の有珠山噴火を経て、4月1日に(ほぼ)この形で施行するまでに僅か2日程度の猶予しかない。当時のJR北海道の対応の速さには驚くばかりであるが、同書P14曰く「これは、JR発足後初めて山線迂回運転を行った1999(平成11)年の礼文浜トンネル崩落事故を経て実施した危機管理体制の見直しの成果である」とのことである。

 ところでこのダイヤ図では、迂回臨時特急が定期6往復+臨時2往復(4/17以降追加)、夜行列車が3往復、貨物列車が3往復+2往復(4/17以降追加)と、非常に大きな本数上の制約を受けている上、ところどころ定期列車である普通列車と駅以外の場所で交差している。この状況は、柿沼博彦鉄道事業本部長の巻頭記事にて以下のように説明されている。「唯一の可能性は、地元沿線のお客様のご協力をいただき、ローカル列車すべてをバス代行輸送とし、確保できる最大本数の特急列車、貨物列車を動かすしかなかった。幸い、異常事態、緊急事態であることをご理解いただき、沿線利用者をはじめ支庁、町村の皆様にはこころよくご協力をいただけたことは、いまでも忘れられない。」一方で、同書には普通列車の運休状況が正確には記されておらず、バス代行輸送があったかどうかの手掛かり(例えばP47下部)の記載にとどまっている。また、当時を記録した動画の一部には走行する普通列車が映っており、本当に全列車が運休したのかは疑問の余地がある。このため筆者は、図1のうち普通列車について、運転・バス代行・運休の三者に仕分ける作業を行った上で、図2のような形で整理した。

図2 普通列車を筆者の推測を基に運転(青(キハ201)、ラベンダー(キハ150)or黒(キハ40))、代行バス(緑)、運休(灰)に仕分けたもの。代行バスの本数はP47の列車番号通りとし、運転時分は列車のままとした。
 普通列車の運転の有無は、特急列車が普通列車との行き違いで運転停車しているかどうかや、車両の数の辻褄合わせから判断している。バスの車両数の辻褄が合っていないが、おそらく小樽駅から長万部駅方面に向かって毎日のように回送バスが走っていたものと推測できる。北斗65号と67号との間、62号と64号との間に大きな隙間があり、普通列車の1本くらいなら入りそうに見えるが、夜間の線路容量は貨物列車に埋め尽くされており、昼間に保守間合いの時間を確保するために、あえてこのような隙間を設けたものと推測できる

 この図を見る限りにおいて、旅客列車に関して言えることは、「倶知安以南は、結果的にバス代行出来てしまうのではないか」ことである。道立高校の越境(要するに熱郛~目名を跨ぐ)通学は例外として認められているものの、定員の10%までという記載がある以上、両駅をまたぐ需要が鉄道を必要とするほど大きくなるとは考えにくい。また、「あえてバス代行しなかった、出来なかった」スジも何本かあるように見えるが、いずれも倶知安~小樽の朝方の需要に限られているし、倶知安以南からの通学に使われたはずのスジ(要するに3929D)はバス代行されていて、バスの定員(P49の写真から推測する限り29人)に収まる程度の利用しか無いことが推測できる。ただし、同時に得られる疑問点として、「現在存続が議論されている区間を、余市~小樽に限定して良いのか」というものも考えられる。というのも、仮に倶知安~余市にバス1台で代行できるほどの通学需要しかないのであれば、1928Dのうち倶知安以北(小樽6:12→7:50倶知安)はバス代行されていても何ら不思議ではない。さらに上記の通り、ダイヤ上でバスの数の辻褄が合わず、小樽からバスをいちいち倶知安方面に回送している状況であり、1928Dがバス代行出来るなら、上記の回送を兼ねることも出来たはずである。

 現状、倶知安高等学校は1学年約150人程度の規模であり、一方で倶知安中学校は1学年約120人の規模であるから、域外からの越境通学は相当に少ないものと推測できる。なお実際の数値であるが、第10回後志ブロック会議の参考資料(PDF2MB)の資料曰く、倶知安駅への通学需要はむしろ蘭越、ニセコ駅からの方が多く発生しているようである。平成12年当時は、本州からの寝台列車と時間帯が重なる3929D列車(長万部6:12→7:51倶知安)をやむを得ず運休・バス代行し、輸送力が不足した場合は、始業より大幅に早い3925D列車(蘭越6:20→6:57倶知安6:58→札幌8:58)を用いて輸送していたものと思われる。

 要約すると、「山線迂回運転時は、倶知安以南はほぼ全てバス代行としていたが、倶知安駅への通学需要は蘭越方面からの方がむしろ多いと考えられる」ということである。

図3 第10回後志ブロック会議の資料より抜粋
図4 図3同様抜粋。OD表をここまで具体的に公にした資料は珍しいものと考える。

 さて、貨物列車に話題を移すと、本数が1日5往復に限定されている。図示はされていないが、交換設備の関係で列車の延長が制限され、DD51重連+コキ10両の編成までしか充当できなかった、との記載もある。迂回運転以前の段階で、定期貨物列車だけで18.5往復、コンテナ車の両数にして20両を超えるほどの需要を、1日5往復、コンテナ車10両の列車だけでは到底賄いきれない。実際のところ、「五稜郭貨物駅~札幌貨物ターミナル間のトラック代行輸送(3/29開始)」「苫小牧港から青森港の船便導入(4/1開始)」「長万部駅に仮設コンテナ積卸場を設け、五稜郭~札幌のトラック代行輸送の一部を、一日で2往復できる長万部~札幌に短縮(4/21開始)」(P28-29,P39-40)等、貨物輸送はトラックや船等、鉄道以外の協力を得てようやく凌いでいる。山線の存廃議論のたびに、有珠山の噴火について触れる指摘が散見されるが、新幹線開業までの間に仮に有珠山が噴火したとしても、貨物需要を賄えるほどの線路容量はとても確保できないし、新幹線が開業して主たる旅客列車が新幹線に移行して以降は、ほぼ貨物列車だけのために、域外の沿線自治体が費用負担してまで線路を保有する理由が無い(第10回会議の議事録P1曰く、国、道庁いずれも、鉄道施設の保有には否定的であるのが決定的である)。

 「有珠山噴火 鉄道輸送の挑戦」は、当時の状況を克明に記した書籍であると同時に、普通列車の需要、貨物列車を走らせる上での輸送力の両面から、皮肉にも「長万部~小樽の全線鉄路存続は極めて厳しい状況である」ことを示している。平成12年の6月には目名駅に交換設備を増設している一方で、倶知安駅の交換設備は本年撤去されており、この状況に拍車をかけているようにも見受けられる。「前回昭和52年に大噴火した際の対策・取組等の記録が無く、今回(編注:平成12年)の事態に生かすことが出来なかった教訓として」(P111編集後記)生み出された同書が、結果的に「(北海道新幹線開業以降の)長万部~小樽の全線鉄路存続は極めて厳しい」ことを示している実態は皮肉と形容せざるを得ないが、新幹線開業後の公共交通計画を形成する一助となれば幸いと考え、あえてこのような形で取りまとめることとした。

 なお、部分的な鉄路存続を論じる上で、現況のOD表や平成12年当時の山線迂回ダイヤを見る限り、仁木~余市及び蘭越~倶知安(~仁木)が俎上に乗っても一見不思議ではないように見受けられる。特に仁木~余市については、第10回会議の議事録内で、仁木町長から「地域住民の感情として、余市・小樽間でできるのであれば、仁木もできるのではないかと淡い期待を持つというのも事実」という発言があるのが印象深い。現在の仁木駅に交換設備が無いのは、昭和61年に山線の(現在の)棒線駅から交換設備を撤去する際、然別・余市の両駅に近すぎるのを理由に選定されたというのが実態だろう。この一件については機会を改めて筆を起こすことにする。