新型コロナウイルス感染拡大防止の取り組みが長期化するにつれ、鉄道事業者が苦境に立たされている、という報道が増えている。特に、感染拡大防止の観点から、朝夕の通勤ラッシュがいわゆる「密」と見做され、収入が減ってしまうにもかかわらず、鉄道事業者の側が時差通勤やテレワークを呼びかけざるを得ない状況にある。時差通勤やテレワークについては、小池都知事が公約の一つとして「満員電車ゼロ」を掲げ、就任以来「時差Biz」という形で継続してきたものの、事実上「効果が無かった」。そんな中、「運賃の値上げ」や「時間帯別運賃の検討」が「鉄道事業者側からの取り組みとして」報じられるようになってきた(例えばJR各社が検討する「ラッシュ時の運賃値上げ」は本当に実現可能なのか)。関東地区において真っ先に名乗りを上げた(とされる)JR東日本については、「まず定期券で検討する」「通常の定期を現状より値上げすることで、(オフピーク時間帯のポイント付与の分と相殺する形で)プラスマイナスのバランスを取りたい」といった趣旨の報道が多い。
筆者の記事を過去の分から継続してお読みの方は、いわゆる時差Bizの鉄道事業者の取り組みを比較検討した際、どうもJR東日本の取り組み(時差Biz公式ページ「鉄道事業者取組レポート」)のうち輸送力増強に関するものが、他社と比べて消極的であることにお気づきと思う。このような状況だけ見ると、(少なくとも)なぜJR東日本が真っ先に手を挙げたのか、違和感を感じざるを得ない。一方で、前回記事で話題提起した通り、JR東日本の通勤定期券の割引率は「1ヶ月定期で約50%、6ヶ月定期で約60%」と、民鉄(例えば相鉄の場合、1ヶ月定期で約37%、6ヶ月定期で約43%) と比べて明らかに高い。通勤定期の割引率が在京鉄道事業者の間でかなりばらついており、その中でJR東日本が突出していることから、「時間帯別定期券」の議論がJR東日本から提起されることには一定の合理性があるように思われる。
時間帯別の変動運賃を検討するにあたって、必ずと言っていいほど話題に挙がるのが「運賃(の変動)を誰が負担するのか」である。わが国においては、通勤定期券の費用は(一説によると、高度成長期に住宅手当の負担を代替する形で)「通勤手当」という形態で企業が負担するのが一般的である。したがって、通勤定期券の割引率に手を加えた際に損失を被るのは労働者ではなく使用者であり、いわゆる「働き方改革」と「通勤手当の負担増」の二者択一を迫るには都合がよいし、個人利用者からの不満も生じにくい。一方で、(少なくとも、通常の通勤定期の値上げに当たる部分の)運賃の改定には国の認可が必要で、(オフピーク定期の新設(≒値下げ分)の届け出を含め)その手続きに時間を要するのが実態である。また、JR東日本が値下げだけを先行する選択をするとは考えにくく、オフピーク定期券は一般の通勤定期の値上げに関して国の認可が下りるまでは実現できない可能性が高い。早期に実現できる方法として「SuiCa定期券をオフピークで利用した利用者に対してポイントを付与する」があるが、ポイントの付与先は使用者ではなく労働者であるため、使用者へと「働き方改革」との二者択一を迫るには(少なくとも、国への認可申請に関する議論がもう少し盛んになるまでの間)時間がかかるものと思われる。本記事では上記の背景から、現時点で盛んになっている時間帯別変動運賃等について、「鉄道事業者は通勤定期券の割引率のみを変動させ、普通運賃等は変動させない」ことを仮定して議論を進めていくことにする。…①
鉄道事業者が通勤定期の割引率を変動させた際に起こる問題は大きく分けて下記の二つであると考えられる。すなわち「現在の割引率をこれ以上下げると、事業者によっては回数券の方が安くなってしまい、実質的な値下げになる上、乗客側からすると不便になる」「定期券の最安区間が他社との間で逆転することで、(6ヶ月定期の最安値で手当てを支給する社においては)乗客の通勤経路が変わる」である。 まずは前者を議論するため、「数字でみる鉄道2019」P.106を基に、関東地方の大手私鉄(とJR東日本)について、通勤1ヶ月定期の割引率を下表にまとめる。
鉄道事業者 |
通勤1ヶ月定期割引率(%) | 同6ヶ月(%) |
JR東日本 |
50.0 |
60.0 |
東武鉄道 |
39.7 |
45.7 |
西武鉄道 |
38.3 |
44.5 |
京成電鉄 |
36.0 |
42.4 |
京王電鉄 |
37.6 |
43.8 |
小田急電鉄 |
43.4 |
49.1 |
東京急行電鉄 |
37.8 |
44.0 |
京浜急行電鉄 |
42.2 |
48.0 |
相模鉄道 | 36.7 |
43.0 |
東京地下鉄 |
38.4 |
44.6 |
都営地下鉄 |
36.9 |
43.2 |
横浜市営地下鉄 |
36.8 |
43.1 |
埼玉高速鉄道 |
34.4 |
41.0 |
北総鉄道 |
30.7 |
37.6 |
東葉高速鉄道 |
29.5 |
36.6 |
芝山鉄道 |
29.5 |
36.6 |
首都圏新都市鉄道 |
40.6 |
46.5 |
東京臨海高速鉄道 |
36.2 |
42.6 |
横浜高速鉄道 | 37.8 | 44.0 |
※6ヶ月通勤定期価格は1ヶ月通勤定期価格の5.4倍(JRは4.8倍)と仮定し試算
上表のとおり、定期券の割引率は事業者によってかなりばらつきが大きい。ここで、一般的な回数券(10枚分の値段で11回乗車できる)の割引率を算定したいのだが、1年間で土曜日・日曜日・祝日が占める割合がほぼ1/3であると仮定すると、(1-2/3×10/11)×100≒39.4%と求められる。大雑把に言って割引率が40%を下回る場合、現時点でも回数券の方が安い。大手私鉄各社は6ヶ月定期で40%を少しだけ上回っている会社が多いが、定期券の割引率をこれ以上下げてしまうと、完全週休2日制を仮定しても回数券の方が安くなってしまう事業者が続出する。このような事情から本記事では、民鉄の通勤定期の割引率も変動しないことを仮定して議論を進めることにする。…②
①②二つの仮定をおくと、議論の対象は「JR東日本だけが定期券の割引率を変動させる場合、他社との間で最安経路が逆転しない条件の下、どれくらいなら値を動かせるか」に集約されるように思われる。本稿では議論を単純にするため、「JRの1ヶ月定期の運賃は変動させず、「6ヶ月定期は1ヶ月定期の4.8倍」の「4.8」をどの程度動かすと、最安ルートがどれくらい変動するか」に焦点を当てて調査したいと思う。まずは、JRと私鉄との間で区間が競合する場合に関して、定期券の価格同士を直接比較する。
表2:JRと民鉄との間の定期券競合区間の運賃比較表
区間 | 1ヶ月定期 | 6ヶ月定期 |
渋谷~横浜(東急) | \10,110 | \54,600 |
渋谷~横浜(JR) | \11,850 | \56,910 |
池袋~横浜(メトロ+東急) | \17,730 | \95,750 |
池袋~横浜(JR) | \19,020 | \93,270 |
品川~横浜(京急) | \11,800 | \63,720 |
品川~横浜(JR) | \8,560 | \41,100 |
品川~逗子・葉山(京急) | \18,910 | \102,120 |
品川~逗子(JR) | \21,500 | \104,330 |
品川~横浜(JR)+横浜~逗子・葉山(京急) | \20,970 | \108,120 |
新宿~藤沢(小田急) | \15,950 | \86,130 |
新宿~藤沢(JR+東急+JR) | \27,590 | \138,490 |
新宿~藤沢(JR) | \26,610 | \142,560 |
新宿~八王子(京王) | \13,750 | \74,250 |
新宿~八王子(JR) | \14,490 | \69,560 |
こうして見てみると、「新宿~藤沢で小田急を挟む区間は、小田急が圧倒的に安い」「これ以外の区間は(主にJR側の特定運賃の影響で)大して変わり映えせず、結局会社・自宅の最寄り駅がどこなのか、で決まってしまう」傾向があるように見受けられる。なお、これだけ小田急線の定期が安いにもかかわらず(新宿行きの)湘南ライナーに藤沢駅で大量に客が乗って来るのは、それだけ小田急線が遅い・混んでいる、という証左に他ならないのだが、(ライナー券ではなく、定期券の)差額を使用者が負担しているのか、労働者が負担しているのかによって、事情が異なるように思われる。
とはいえ、よくよく考えてみるとJR側は「最安経路が私鉄側に流れない範囲で特定運賃を設定する」という無理矢理な方法を使えば、6ヶ月定期の「1ヶ月定期の4.8倍」の「4.8」という値を、最安ルートを競合他社に取られない範囲で比較的自由に動かすことが出来る。とはいえ、「特定運賃の区間をむやみに増やしたくない」「定期券を分割購入する方が安いような特殊な区間をこれ以上増やしたくない」等の事情もあると考えられるので、「特定運賃の区間数・組み合わせ数の増を必要最小限にする」制約を加えるのが現実的と思われる。…③
①②③の制約下で、一般の定期券の料金がどの程度の値を取りうるかは、調査の手間が非常に膨大であるため次回に回すことにして、今回は「オフピーク定期の時間帯をどこに設定するか」について記し、いったん筆を置くことにする。「オフピーク時間帯」を値下げしてピーク外の時間帯に向かって一部の乗客を誘導する際、JR東日本(特に、中距離電車)にとって特有の問題は「早朝の輸送力が他社に比べて小さく、ラッシュピーク時並みに混雑が激しい」ことである。議論の趣旨は筆者の過去の記事「ゆう活と時差出勤と増発と」や快適通勤ムーブメント「時差Biz」実施に関する事前考察(4) に譲ることにするが、その後4年近く経つものの、早朝時間帯の混雑は一向に緩和されない(多少輸送力は増えているが、その分以上に乗客が増えている)状態が続いている。筆者としては、早朝をオフピーク時間帯に含めるとともに、早朝時間帯の輸送力を早朝の需要増を上回るレベルで増強するべきと考えるが、②の制約条件を踏まえると、早朝時間帯の輸送力に(比較的)余裕のある民鉄と歩調を合わせることが難しいことから、早朝時間帯(朝ラッシュのピーク前)はオフピーク定期券の対象外になる可能性が高いと推測する。筆者個人としては非常に不満であるが、需要変動を踏まえた輸送計画を立てる際、早朝時間帯をオフピークに含めないことを仮定せざるを得ない状況にあるものと考えられる。…④
図1 国交省の報道発表資料三大都市圏の平均混雑率は横ばい ~都市鉄道の混雑率調査結果を公表(令和元年度実績)~ の資料4より抜粋 | |
以上